――わかっていなかった。
――俺は、あれだけの目に遭っていながらちっともわかっていなかった。

がむしゃらに木々を縫って走るグエンは、荒く息をつきながら己の愚鈍さを嘆いていた。
そして今、こうやって全力で逃げ出している弱さが憎らしかった。
守ろうとしていたはずのアビィも、アリアナ――彼がかろうじて家族と呼べるだけの人々を放り出して尻尾を巻いて逃げているのだ。
逃げ出しただけならよかった。
問題は、彼がこうやって他人を見捨てて逃げたのはこれで二回目だということ、そして逃げ出した相手もまた、同じだったということだ。

銃を持ったあの軍人など、大した障害ではない。もちろん邪魔ではあるが、策さえ練ればどうにだってなれる。
こちらへ来いと命令されても従うつもりですらあった。拘束されようが捕虜になろうが、解放される、あるいは逃げ出す自信もあった。
あの場にとどまっておいたほうがこれから先遥かに有利であったことはグエンもわかっていた。
だが、あの軍人に付き従い現れた男。
あの男がいて、にやにやと楽しげにこちらを見ているのを前に、どうしてとどまることができようか。
十年前、手塩にかけて育てた部下を――戦友を残らず殺し、彼に数多の消えない傷を残した男。
七年前、年端もいかない少女二人までをもその異常な性癖の犠牲者にしようとした男。
アルバート・セルバシュタイン。

年月をかけて構造を頭に叩き込んだ森を迷いなく駆け続ける。
確かに、アルバートへの復讐を誓っていた。そのために入念に準備をしてきた。あの男は確実にこの街に姿を現す、そう信じて今までじっと耐え忍んできた。
事実彼はやって来た。アルバートの名にふさわしい血にまみれた事件とともに、ルイスという名を名乗ってやって来たのだ。
だがグエンには大きな誤算があった。
あの時少年であったアルバートは、彼の想像を遥かに超えてたくましく……そして想像を絶するほどに禍々しくなっていた。
「よろしくお願いします」、アルバートのもとへ行き自らの正体を明かした時の彼の声音と笑顔を思い出す。
もはやアルバートという男の中に、正気など一つも残っていないのではと思えるような、ぞっとするほど冷たい声だった。
柔和な笑みを浮かべつつも、目は確かにこう言っていた。
お前を忘れてなどいないと。
――お前があの四人目の兵士を殺したのだろうと。

「――くそっ」
走りながら悪態をつくグエン。
入念に準備し、より用心深く心の整理をつけたはずだったのだ。
なのに、最初から何もかもうまくいかなかった。自分の弱さももちろんある。
しかし、やはりあの男に――アルバートに翻弄されているのが何よりも不快だった。
今はとにかく、忌まわしい殺人鬼の目から逃れることだけを一心に願い、こうして不様に逃げ出している。
結局は自分もまた、徒党を組み牙を向いた負け犬たちと変わりはしないのだ。何もかもを見捨て遁走しているのだから。
どこかもわからぬような林、いや森の中を駆け続け、ようやく足を止めるグエン。
油断なく目を走らせたところで彼を追う存在などいるはずもない。それでも用心深く周囲に注意を払った。
――また、お会いしましょう。その時は――。
自分にのみ向けられた例えようのない殺意に、いまだ震えている汗ばんだ手を見下ろす。
鏡があるならばおそらく土よりも血の気の失せた顔色をしているのがわかるだろう。荒く、だが極力殺した息をつく。
「……何がしたいんだろうな、俺は……」
強張っていた表情を緩め、彼は泣きそうに顔を歪めた。
出していた手で顔を覆い、背の高い茂みに隠れるようにしてしゃがみこむ。
湿った手のひらはそれでもかさついていて、いくつも豆ができていた。
一般人として身を隠し続けていた十年間を無駄に過ごしたのではないと、その手が何よりも証明していた。
事実、彼は鍛錬を一日たりとも欠かしたことはなく、来るべき復讐の時を思いながらその体を鍛え続けていたのだ。
だがそんなものが何になったのだろう。成長したアルバートは、彼が無機物相手にしていた十年間をまるまる実戦に費やしてきた。
十にも満たない少年の頃ですら、大人数人を簡単にねじ伏せてしまう化け物であったのに、今の彼がどうやって敵うというのか。
グエンは化け物ではない。ただのしがない、敗残兵に過ぎなかった。
深い絶望と、確実に訪れるであろう将来への恐怖に震えながら己の体を抱きしめる。
薄暗い森の中は暮れの訪れとともにより一層光を追い出し、それが殊更に孤独を増長させた。
今、彼の座っている場所。その下には兵役時代に使っていた武器や、辛うじて持ち出せた亡き部下の形見が隠されている。
できるなら彼らとともに仇を討ちたいと考えていた。それももはや無駄だと悟ってしまったが。
どちらにしろ進むしかないのだ。どちらにせよ、どうせ部下やこの街の犠牲者と同じくぼろきれのように散っていくだろう。
彼は蹲りながらそう自分を納得させようと努めた。
こんなところで隠れ、逃げながら殺されるか。
それとも無駄だとわかっていても立ち向かい、やはり惨たらしく殺されるか。
ならばどちらをとるべきか、わかっているだろう――。

『――憎いか。あの男が』
唐突に訪れた声に、グエンははじかれたように顔を上げた。
足音も、気配すら感じなかった。
「誰だ?」
即座に立ち上がってそばの樹に背中を預け、暗がりに向けてグエンは問いかける。
ほとんど何も見えないほど日は落ちてしまっていた。声は施設の者でも、ましてやアルバートでもない。
間近に聞こえたというのにいくら気を張ってみても気配は微塵も感じない。不穏な予感にグエンの顔が険しく強張る。
『誰かと聞かれても。どうせお前は俺のことを知らないだろう』
「……誰だ! 姿を見せろ!」
再び聞こえた声は不自然なほど近く……グエンの耳元で囁いているかのような近距離であった。
グエンの硬い警告に声が笑う。今度はやや遠くで聞こえた。
せわしなく視線をさまよわせても、やはり何も、――いや。
『驚かないでくれよ。こう見えても俺は繊細なんだ』
思わずグエンは警戒も忘れ、目を凝らした。彼の正面に不規則に生えた木々、その隙間から、淡く光る何かが見えたのだ。
それは影からゆったりとこちらへ姿を現していく。やがてはっきりと、それが何であるのかわかるようになった。
それでも、目の前に現れたものをどう形容すべきなのか、グエンはふさわしい言葉を持っていなかった。
さっきまで嫌というほど味わっていた恐怖も忘れ、ただ目の前に現れたそれを凝視する。
それは、淡い燐光を放つ、半透明の――人だった。
真っ黒な詰襟の服を着た、聡明そうな一人の男。縁のない大きな眼鏡の奥で、それは皮肉っぽい笑みを作っていた。
「お……前は……?」
予想を上回りすぎたものの出現に、グエンはただそう問うことしかできなかった。
『俺が何者かなんて、どうでもいいことだ。まあ敢えて言うなら……グエン・ヨウニ。お前の友達の友達ってところさ』
「友達の、友達……」
『そう。お前が彼を友達だと思っているなら、な』
それの放った、彼という言葉にグエンは反応した。
今、この国でグエンが友達だと辛うじて言える者は本当にごくわずかだ。なおかつ男の友達となると、一人しか思いつかない。
だが、彼もまたグエンと同じく孤独な人間であるはずだった。そんな彼が、まさかこの異形の存在と親しいはずもない。
グエンはそれこそ十年ずっと片時も彼と離れず過ごしてきたのだから。
『重要なのは俺が誰かじゃない。俺とお前の目的が同じだということ、それだけだ』
半透明の、実体もない存在にもかかわらず、それはゆったりと手近な樹に寄りかかって腕を組んだ。
――同じ目的。それは、
「……セルバシュタイン」
『そう。今はルイス・パーネットと名乗る、あの男のことだ。あの男を殺したいんだろう?』
なぜ目の前の存在はグエンの名を知っているのか、なぜ自分の目的を知っているのか。
疑問が生まれたが、気がつけばグエンは頷いていた。
あの男を殺したいのか、そう問われることで失いかけていた執念が再び燃え上がってくるのを感じた。
「あいつを殺す。あいつだけは……許さない」
口にすることで、その執念が更に強固になるような気がした。
『だけど』とそれが言葉を継ぐ。
『お前一人ではパーネットは殺せない。絶対にだ。お前だけじゃなく、誰にもあの男を殺すことはできない』
グエンの言葉に同意を見せていたそれは、今度はあっさりと彼の決意を否定した。
「殺せないだと? ――そんなことあるわけがない」
目の前の有り得ない存在に対するさまざまな疑念を押しやり、グエンが更にそれを否定する。
いくら強かろうと、圧倒的であろうと、人間であるなら死ぬのは当たり前のことだ。
個人でアルバートに勝てる者がいなくとも集団でねじ伏せればいい。数多の兵器で討ってしまえばいい。
それらすべてを否定するような断定がひどく気に障った。
しかしそれは、皮肉っぽい笑みを吊り上げた。
『いいや。どんなに数が多くても、銃火器を使ったとしてもあの男は死なない』
グエンもまたわずかに笑う。あまりの荒唐無稽さに出てきた嘲笑だった。
それを言うならば今の状況は既に十分に荒唐無稽だが、あまりの有り得なさに笑いしか出てこない。
なぜかうっすらとかきはじめた汗に見てみぬふりをしながら、
「何を馬鹿な――」
グエンが嘲笑を口に出そうとした時だった。

『――何しろあの男は人間じゃないからな』






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