――はあ? と、声に出そうだった。
「人間じゃない? それならあいつは何なんだ」
『何だっていい。今、街で流行っている化け物でもいいし、お前の国で呼ばれていた悪魔や死神という言葉を当てはめてもいい』
「……馬鹿馬鹿しいな。何のために現れたのか知らないが、」
『俺のこの姿を見ただけでも説得力にはならないか?』
「……」
グエンが探るようにそれを見た。何度見たところで、うっすらと向こうが透けたその体が実体化することはない。
実際、こんな奇妙な物体、いや存在は今まで見たことがない。トリックだとも思えない。幽霊という言葉が正しいのかもしれないが、それにしてはいやに普通すぎる。
半透明の人間、あやふやなその言葉が一番しっくりきそうなほど、それは当たり前に存在していた。
『信じる信じないは関係ないさ。どちらにしろお前一人では、いくら策を練ったところでパーネットを殺せはしない。その事実は変わらないからな』
確かに、目の前の半実体の男の言葉を信じないまでも、グエン一人ではアルバートへの復讐を果たすことなど絵空事だ。
そう実感していなければグエンは今こうして不様に逃げ出すこともなかっただろう。
土の下に眠っている凶器も役に立つとは思えない。何しろ、それらはすべて銃火器ですらないのだから。
「お前は何をしに来たんだ。俺に復讐をやめろとでも言いに来たのか」
グエンが噛み付くように問うた。それの放つせりふはまるで意味をなさない、グエンをただ絶望に突き落とすためだけのものだ。
だがそれは首を振った。腕を組んだまま、温和そうな顔に似合わない冷酷そうな目でグエンを睥睨する。
『グエン。お前の望みを叶えたいとは思わないか?』
――叶えたいに決まっている。
そう言いかけ、グエンはぐっと言葉を飲み込んだ。
代わりに抜け目なくそれの様子を窺いつつ、
「そうやって誘いをかける奴はたいてい裏があるもんだ。どうせ相応のリスクがあるんだろう」
甘言に従うことなく指摘すれば、『用心深いことだ』とそれが笑った。
『もちろん、ないこともない。だが、これからのお前を考えればリスクがあろうがなかろうが変わりはしないさ。その程度のものだ』
「……回りくどい言い方は嫌いでね」
『奇遇だな、俺も好きじゃない。だが疑り深いのはお前の方だろう、グエン・ヨウニ。……簡単な話だよ。人ならざるパーネットに打ち勝つには、お前も人ならざるものになればいい』
「何だと……?」
見過ごしてきた汗がグエンの服を張り付かせる。
なぜだか、嫌な気配――予感がしてたまらなかった。
アルバートと対峙したときとは異なる、正体の知れない不気味な悪寒に首筋がちりちりと痛んだ。
それは腕を組んだまま、唇をしならせた。皮肉なことにその表情は、それが嫌うというアルバートの持つ笑みと酷似していた。
『人ならざるもの、お前の敵たちが言うとおりの化け物になればいいんだよ。目には目を、歯には歯を。化け物には化け物を、さ。
 実体を持たない俺にはパーネットを討つことはできないし、ただの人のお前にもパーネットは殺せない。
 だがお前には実体がある。俺には、お前を化け物へと変えられるだけの力がある。どうせ今のままだとお前は死ぬんだ、そうだろう?』
――ならば化け物になったところで何も問題はないじゃないか。
悠然と言い放つそれの、控えめな褐色の目が狂気に揺らめく。グエンの瞳もまた混乱に揺れた。
「……」
常軌を逸した、つかみどころのない提案。そしてその提案をする、存在すら希薄な男。
この状況を何と呼ぶべきであろうか。どうやって整理をつければいいのか。
(……俺に化け物になれと言うのか? 本物の……化け物に?)
平素の彼であるなら一笑に付したであろう――いや、誰であろうと荒唐無稽としか思えない話なのに、グエンは笑わなかった。
継ぐべき言葉が見つからず、じっとりとした汗ばかりが次から次へと服の下から滲んでくる。
そもそも化け物とは、一体なんなのか。
異形、異能、異端――人は通常でないものを簡単に化け物と形容する。
事実グエンは他国の者というだけで悪魔と形容され、レンツは不可思議な目を持つがゆえに化け物と蔑まれていた。
発端となったアルバートもまた、人並み外れた身体能力と箍の外れた神経があるからこそ化け物と呼ばれたのだ。
だが、この男が指す化け物はそんな慣用めいた使い回しではないように思える。
レンツやアルバートのような揶揄ではない、本物の化け物。
本物とは、何だ?
頷けば、――どうなるのか?
『安心しろ』
一人ぐるぐると考えていたグエンを見透かして、それがいくらか柔らかな声を出した。
『今どうこうするつもりはない。お前がそうやって迷っているうちはな』
「……迷ってなど、」
『お前にはお前の、俺には俺の目的があるだろう、グエン。俺に弁解する暇があるならお前自身に問うがいい。
 お前の中で何が最も大切なのか、何を守るべきなのか、そのために何なら捨ててしまえるのかを。
 大事なのは、その時が来た時にお前が何より――あの悪魔を憎んでいるかどうかだ』
和らいだとはいえ、それの声には硬さが常に含まれている。
真剣な面持ちで覚悟を問われれば反射的に「憎んでいるに決まっている」と吠えるが、それが安堵に表情を崩すことはなかった。
何もかも見透かしてでもいるかのように半透明の目が語りかけてくる。
その無音の声を聞きたくないとばかりにグエンは問うた。
内心で、こんなものに頼らなければならない己を恥じながら。
「その時とはいつのことだ。俺は、……何をすればいい」
得体はまったく知れないが、この半物体はグエンよりも多くのことを知っている。それだけは確実なのだ。
アルバートとレンツ、そしてこの男との間に何があるのかはわからない。聞くつもりもない。
ただ、彼は、
(――そう、俺はその日のためだけに生きてきた。セルバシュタインの悪魔を殺すためだけに)
もやもやと心のどこかに残るしこりに目を背けたまま、何度も自分に言い聞かせた。
無表情に葛藤し続けるグエンをよそに、それもまた意味深な表情を見せた。
『何もする必要はない』
「……何も、だと?」
『もう決まっているのさ。たとえお前が恐れおののき逃げ出したとしても、もう壇上にあがってしまったんだからな』
それがわずかに見せたのは、憐憫の眼差しだった。

『俺はしばらくお前と行動をともにしよう。お前が逃げ出さないように、立ち向かえるように、待っていた時が来たら乗り遅れないように導いてやる。
 だからお前もせいぜい考えることだ。これから何が起きたとしても奴を――パーネットだけを憎むことができるのかをな』
薄闇の中で溶けてしまいそうな希薄な存在。それから滲み出る燐光も境界線をより曖昧なものにさせていた。
何よりも不確かなそれは、しかしグエンが気圧されてしまうほどの眼でもって彼へ皮肉の言葉を贈る。
グエンの胸中などすべて見透かしているのか。
「好きにするがいいさ」
自らの思いを悟ったような顔をする目の前のそれに不快感を覚えつつも、グエンは無表情に承諾した。
この男が何者であろうが、自分を利用する真意が何なのかなどどうでもよいのだ。男の影に何がいようともグエンの知ったことではない。
ただ、アルバートを討つためだけに今日まで生きてきた。それを否定することなどあってはならないと、グエン自身が何よりも知っている。
「この際お前が何者なのかなんてどうでもいいからな。誰の友達だろうが敵だろうが俺の知ったことじゃない」
出会い頭にそれが放ったのと同じ言葉を繰り返す。思ったことを口にすることで迷いを振り切ろうとしているかのように。
復讐。そのために、人外のものと手を組む。それがどうだというのか。
手を組もうが組むまいが、
「……どの道」
グエンの将来というものは途切れてしまっているのだ。
『今は隠れるべきだ』とどこかへ案内を始めるそれに従いながら、グエンは日の落ちる方を見た。
彼らを覆い隠すような木々の向こうを、目を細めてしばし眺める。
わずかに滲んだ悲哀の色は、視線を戻した時にはすでに跡形もなくなっていた。






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