「なぜだ」
一刻も早くこの目から逃れたいと願いながら、レオンは問うことをやめなかった。
なぜルイスという男はこんな目をしているのか。たった十九年ほどしか生きていない、それも――人生の苦というものをろくに知りもしない男が。
違う。レオンが聞きたいのは、そういった根源的な問いではなかった。そんな問いは彼と出会った過去から一万回も反芻し続けている。
「なぜ、あんな男に執心する?」
忌々しい、黄土色。乾いた砂でもない、鮮やかな金髪でもない――乾ききってもいなければ湿ってもいない中途半端な色、
そして流れが止まり腐り始めた泉のような、青とも緑ともいえない色、どちらもやはり光は通さない。ただただ濁りに澄み切っているだけだ。
脳裏に浮かんだ要素を反駁したとき、それは実体を持ちレオンを見据えた。
悪寒も恐怖もない。そんなもの、ルイスという怪物とともに過ごしてきた時間のすべてを思えば一握の砂にさえなりはすまい。
だからこそわからなかった。彼の中の定義に外れてしまえば旧知の仲であるレオンさえも殺してのける男が、なぜたった一人に執心するのか。
それどころかこの街では全てがあの聾唖の男を中心としている。余所者の聖職者二人でさえ、彼を気にかけそれぞれの思いを抱いている。
レオンにとって、いやほとんどの者にとってかけらほどの価値も見出せない石ころが、ここでは絶対的な評価を持って君臨しているのだ。
まるで見えざる暴君のように。
そしてその暴君は、いまやレオンにさえ侵食しようとしている。
考えたところでレオンは首を振った。まるで、今朝方抱いた思いのすべてを否定するかのように。
ルイスは彼の問いにうっそりと笑い、そしてレオンに見せ付けていた目を離した。
死神のような眼差しから解放されたことで思わず息をつき、そして幾分かの調子を取り戻してレオンはなおも言い募った。
「わからん、ああそうさ……俺にはちっとも理解できん。上の奴らの思惑も、国王のたわ言も、監視の恐怖とやらも何もかもだ。
 あんなモヤシのような男に何の価値がある? 他の何もかもをうらやましく見つめるだけの卑屈な男が神の使いだと? 馬鹿馬鹿しくてあくびも出やしない。
 俺が一番理解できんのはそこだ。お前の行動はさっぱり理解できんが、それでもこれだけはわかる……お前はあの木偶の坊に人生初の興味を持っていることはな」
「相変わらず人間観察は一級品だね。確かに彼は何一つできないひとだよ。するなと言われれば息さえ止めるようなひとだ」
「なら何の価値があるって言うんだ?」
頷くルイスに、やけくそに煙草をうち捨てるレオン。彼にとって今は何もかもが忌々しいが、何よりも忌々しいのはそいつだと言わんばかりに顔をしかめている。
「忘れたわけじゃないだろう。お前はこの国の英雄なんだ。活躍したのはほんの五年ほどだが、あらゆる国民はみんなお前を神と崇めている……国王なんかよりはよほどな。
 お前の付き人なんて散々な役回りをしている俺に、これだけは言わせてくれ。頼むから気の狂ったような真似はするな。どうせさせるなら、楽な尻拭いをさせてくれ」
「英雄も神も、僕には興味がないよ。アルバートという名前もね」
「またルイスか? ルイス・パーネット? お前はそんな名前じゃないだろう。アルバート・セルバシュタインなんて仰々しい名を持っているのがお前だ」
「それなら君には関係のないことだよ、レオン・サンディオ。君が仰せつかっているのはアルバート君の尻拭いだ」
「子供みたいな言い訳が他の奴らに通るとでも?「未曾有の大虐殺をしたのはルイスという架空の新兵で、アルバートは関与していません」と言えば通るか?
 あいにくだが俺はいつも通り上にお前の所在を報告した。こんなことになるとは思ってもみなかったからな!」

やけくそに叫んだレオンはそれからゆっくりと息をつき、そして二本目の煙草を取り出した。
「違う――それも本音だが、俺が言いたいのはそんなことじゃない」
視線をさまよわせ、そして誰もいないのを再三確認してから、レオンはゆっくりと言葉を紡いだ。
「お前の友人として問おうじゃないか、ええ、アルバート? いつの間にお前は他人に興味を持つような人情味溢れる奴になったんだ?
 いかにして惨たらしく殺すかが人生哲学だと考えていたお前が、いつそんなものを見出した。そうだ、そもそもお前は最初からここを目指していた。
 何もかもがそこからだ。なぜここに来た? なぜ何の害もない民間人を殺す? なぜあの男に付きまとうんだ」
不快な臭気をかき消そうと懸命に煙を吸い込みながら、激しくルイスに詰問を続ける。
だが彼は上機嫌なその笑みを崩さず、聞いているのかさえも怪しかった。
追い討ちをかけようとレオンが口を開こうとした時、
「――歩こうよ。いい加減進まないと、言い訳がきかないでしょう」
まばらな藪の合間にできた粗悪な道を、ルイスが下り始めた。彼ら二人は今までずっと教会を背にしていたのだ。
レオンは舌打ちをしつつもその後を辿る。風が藪に切り裂かれもみくちゃに髪を撫でた。

日は高く、細い髪を透過して日光が頭皮に突き刺さってくる。喚いたことであの緊張感は薄れ、また汗が滲み始めているのがわかった。
「君は言ったね。何の害もない民間人、って。普通なら罪という言葉を使うはずなのに、君はそうは言わなかった。僕は君のそういうところが好きだよ」
砂埃で色あせた軍靴を進めれば、暴風に紛れて二つの足音がかすかに聞こえた。砂利道を踏みしめながらレオンは注意深く前を歩くルイスの言葉に耳を傾ける。
謎かけめいた物言いはいつものことだ。いつものことであるなら聞き流している。だが、今は平時とは違うのだ。
「罪のない人間なんていないんだよ。罪があるなら害がある。害があるなら、罰はひとりでにやってくるんだ」
ルイスの足取りは確かだ。その上、まっすぐに歩いている。
目的地を知っている人間の歩みだった。
「あのひとたちに罪はない、害もない? そんなはずはないよね。昨日の惨劇を見て、誰もそんなことは言えないでしょう?
 あのひとたちはやってはいけないことをした。過去も今も、そして未来も同じことをし続ける。嘘をつきながら、なんでもない顔で、人を虐げ続けるんだ」
傍から聞いていれば、それは正義感に満ち溢れた言葉であっただろう。レオンもまたあまりに似つかわしくない言葉に、思わず乾いた笑みを手向けた。
「それはレンツ・ヴァイルへの態度を言っているのか? いつお前がそこまで情け深くなったんだ。あんな人を人とも思わない殺しをやってのけるお前が?」
「僕は人を殺したことはないよ」
「なんだと……?」
「人を殺したら意味がなくなってしまうよ。それは一番やってはいけないことだもの」
平然と言ってのけるルイスに、レオンはめまいさえ覚えた。――殺したことがないだと?
戦場において百ではきかない敵兵を惨殺した男が、巻き添えに数多の戦死者を出した男が、今は民間人でさえも容易く拷問にかける男が出した言葉とは思えなかった。
霊魂というものがあるのなら、おそらくそれら全てが言うだろう。どの口が言うのか、と。物心ついた瞬間から人の首を刎ねるような非道の者が言えたせりふであるはずもない。
レオンは唖然としたが、ルイスはそれすらに気付いていないかのように下り続けた。歩みを止める者は何もない、そう希望に溢れた足取りで。
「彼は何もできない。確かにその通りで、だからって罪がないわけでもない。何もしないことそのものが罪になることだってある。
 だけれど彼はそれを理解しているよ、他の誰よりもね。そして彼は何よりも神の使いだ。何もできないことこそ、あの人のちからなんだよ」
耳にまとわりついてくる言葉――神の使い。
もはやその言葉を聞いただけで背筋が粟立つほどに苛立った。何よりも、神も糞もないような男がそれを口にするのが腹立たしかった。
自分の寝ている間に世界が作りかえられて、一人だけ置いてけぼりにされている気さえする。それだけならば涙を飲んだっていい。
だがレオンはその世界の渦中に位置しているのだ。ルイスがそこに留まる限り、退場することも許されない。わけのわからぬまま翻弄され続けているのがまさに今の状態なのだ。
「……ついに気でも狂ったか?」
「狂っているのは神様の方だよ。そう、僕なんかよりよっぽど狂っているんだ、きっとね。僕の意思でもあるけれど、こうなるのは僕の意思だけじゃないんだから」
「そうか、お前は予言の通りに行動しているんだったな。……なら聞くがな。お前の神は邪神か? お前の行動は明らかに聖なるものからかけ離れているじゃないか」
「まことの神、いつわりの神。レオン、君も宗教というものに毒されているんだね。でもすぐにわかるよ。あのひとが目覚めたなら、僕が幕を上げる番だ」
お前にだけは言われたくない、と吠えたくなったが、最後の言葉に底冷えするような悪寒を味わって口をつぐんだ。
ルイスの足取りは軽い、そして確かだ。まっすぐと歩み、そしてそれはおそらくある場所へと向かうのだろう。
決して軍のキャンプではない。あそこに行けばただ帽子を被り髪を結わえただけのルイスが誰であるのか一瞬で悟られてしまう。
更なる生贄が、数多の生贄が燃え上がる。清い土くれたちとして。
そして聖なるものも悪しきものも一緒くたになって目覚めるのだ。
ならば英雄は英雄のままでいるのか?
「……アルバート」
既にべっとりと張り付いた死の臭いを撒き散らすルイスに、同じ文句をして問いかけた。
「お前はどっちなんだ。神の使いか、それとも……悪魔か?」
何度自称されてもその疑惑は晴れなかった。ある一つの大きな矛盾がレオンを苦しめていた。
王を殺す。予言の通りに。悪魔の所業。殺人。
聖人君子にはおよそ似つかわしくない言動と、それを裏付けるのは予言の言うところで彼の行使する役割はまさしく悪の側であるということがずっと引っかかっていた。
自分は何かを見落としている。それが焦りを生む大きな要因の一つだ。
「お前は、俺の味方か? それとも敵なのか?」
国家と軍とは言わずもがな密着しあっている。レオンの確信めいた疑念が真実であるなら、それはつまりこの史上最悪の男と対峙せねばならないということだ。
絶望のこもった問いに、ルイスは悲しみも怒りもしなかった。
あるのはただ貼り付けたような完璧すぎる笑みだけ。
「僕を悪魔と呼ぶのは、向こうもまた悪魔のときだけだよ。君こそどちらにいるんだろうね」
そうして、ルイスは散歩に行くような足取りのまま平地に足をつけ、そしてまっすぐ進み始めた。
進路への確信を持ったレオンは煙を撒き散らしながら、ただ彼に追従した。キャンプへ戻る道へ来ても、彼の目にはずっとあの革袋が映っていた。







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