山と荒野に囲まれた南と東の果ての地で、三匹の悪魔が目を覚ます。
四つの魂は生贄となり、奪われた血を代償に神の礎が失われる。
戦人と監視者の密会が開かれたのちに、更なる生贄が清い土とともに燃え上がる。
灰から生まれる第一の神の使いもまた、悪魔とともにこの地に眠り盗まれた声を奪い神の膝に舞い降りる。
清浄なる者は灰に触れてはならぬ。神の礎にこそ悪魔は潜み、その目覚めを待ち望んでいるだろう。

我らは尊い犠牲を決して忘れてはならぬ。
流された血の臭いを、呪いの混じった血を吸い込んだ土が何者をも育てぬことを、決して忘れてはならぬ。
確かに悪魔は目覚めている。強かなる姦計こそが悪魔の真の凶器であると、心に留めよ、神に愛された子供たちよ。
愛するものを知るのなら、今こそ武器をとり戦うのだ。
人は神にはなれぬ。そして神もまた人にはなれぬ。しかし人の祈りは必ずや神に届けられる。
悪魔を照らせ。炎を灯すのだ。今こそ己の役割を理解する時が来た。
尊い血によって燃された聖火は、煌々と悪しきものを暴くだろう。




私は今まで、神様というものを信じたことはありませんでした。
だって神様がいるなら、お父さんもお母さんも生きているはずだから。
でもお父さんもお母さんも死にました。友達もみんな、死んでしまいました。
ううん、私が知っている人たちだけじゃない。いろんな人がたくさん死にました。だから、神様なんていないと思いました。

神様に感謝したのは、たった一度だけ。
あの人と出会わせてくれてありがとうって、一度だけ思いました。
あの人に出会わなかったらきっと私は死んでいました。死ねばお父さんとお母さんに会えるかな、って思ったこともあったけど、やっぱり生きていてよかったと思います。
でも、その気持ちを神様は裏切りました。神様はそんなこと知りもしないだろうけど。だって、いるはずがないんです。
神様がいるなら、どうして幸せだった私たちをまた不幸にさせたのですか。
どうして不幸になって悲しんでいる私たちを、もっともっと不幸にさせるのですか。
試練だなんて思えません。こんなのが試練だなんて、思いたくもありません。これが試練だって言うのなら、誰も克服なんてできません。


(「正直、ここの暑さはひどいもんだよな」、マギーが毛布を干しながら愚痴をこぼし、キャスは返事こそしないものの顔が同意を示していた。
 「それにしても神の使いか。なんか信じられないっつーか、なんつーか」私もその意見に賛成しよう。神が実在するだなどという話が事実として扱われるとは。実に滑稽だ。
 強い風に毛布がはためく、ばさばさとけたたましい音をたてる。「風が強いな」と、真新しい煙草をくわえキャスがぼやいた。
 「空気も乾燥してるしなあ。おい、煙草はそこらに捨てるなよ。山火事になったらしゃれにならねえだろ」
 マギーの冗談に、私はなんとなくいつかの夢を思い出していた)


あの人は、みんなに嫌われていたけれど、私にとってはとても素敵なお兄さんでした。
お母さんに会いたいってわがままを言った時、みんなは困った顔をしてなだめてくれたけど、誰も本当のことを言ってくれなかった。
私は知っていました。お母さんが死んだのを、見ていたんだから。だけど会いたかった。どうしようもなく、会いたかった。今だって会いたいです。
わがままだともわかっていました。だからこそ、みんなは子供のわがままとしか思ってくれなかった。
誰も私のことを、私だって認めてはくれなかった。泣き止まない私をみんな、面倒だなって思っているのがわかってとても悲しくなりました。
でも、あの人は、すごくすごく困った顔をしていたけれど、私にきちんと向き合ってくれました。
お母さんはもういない、もう会うことはできない、代わりにはなれないけど、ここのみんなが家族だからって。何回も何回も紙を破り捨てながら、それでも私に伝えてきました。

それだけじゃない。
私がご飯を残した時、食べようと思ったものはちゃんと食べなさいって言ってくれた。
悲しくて泣きそうな時、お仕事の合間に私が寝るまで手を握っていてくれた。
お姉ちゃんと喧嘩をした時、本当の家族を大事にしなさいって教えてくれた。
成長して黒髪になっちゃったことが嫌だって言った時、どんな色でも私は私だって励ましてくれた。
身長のことでからかわれた時、大きくなってくれてとっても嬉しい、誰が何て言おうと自慢だよって慰めてくれた。
あの人にだけ冷たいみんなが嫌いって言った時は、みんなとっても優しいんだよ、ってちょっとだけ笑うあの人のことが大好きでした。
たくさん幸せになれなくてもいいから、私はみんなとずっと一緒にいれたらいいなと思っていました。
お姉ちゃんと、二人目のお母さんと、意地悪なお兄さんと、それから、あの人と。
それ以上は欲しいと思いませんでした。なのに、神様はそんな小さな願いも聞き届けてくれませんでした。


(「煙草はやめたんじゃなかったのかよ」とマギーがにやつきながらキャスに言う。キャスはふてくされたように口を尖らせ、うるせえよ、と言った。
 それはあくまでも平和な日常のひとときだ。私は満足すべきはずなのに、何かがそぐわないような印象を抱いていた。
 足りないのは何か。それはアリアナかもしれない、アビィ、グエン、ドナかもしれない。聴覚は得た。だがそれでは足りないのだ。
 「レンツさん」という声がして、私はマギーの方を見る。話していたのは他愛もないことで、たまたま私のことが会話に出ただけだった。
 マギーはそのまま話を続け、キャスは煙草を離し眉根を寄せてこちらを見る。サンディオが見せたような、奥歯にものが挟まったような顔だ。
 私がなぜ彼らに自分に起こった変革を伝えないのか、それは別に目的があるわけではなかった。話したいことはないし、伝える必要もないから、ただそれだけだ。
 キャスはしばらく不思議そうにしていたが、やがてマギーの世間話に乗り始めた。私は対岸の施設を眺めていた)


私は軍隊が嫌いです。戦争でどっちが悪いかなんて思ったこともないけど、軍隊は私の大切な人をみんな奪っていったから。
みんな奪っていきました。お父さんも、お母さんも、――二人のお兄ちゃんまで。

あの人がどんどんおかしなことになっていったのも、軍のせいだと思います。
門番の人たちが殺されてから、あの人はなんだかおかしくなりました。
それから……それから、あいつが来てから、あの人はもっともっとおかしくなりました。
あの人は忘れてしまっているみたいだったけど、私はあの日のことを……お父さんとお母さんが死んだ日のことをよく覚えています。
あの人は耳が聞こえない。だから、私とお姉ちゃんがあの日何を聞いたのかも知らない。だから印象に残っていないのかもしれません。

あの日、みんなみんな死にました。敵の兵隊も、この国の兵隊も、私たち以外はみんな。
あいつが殺した。あいつがみんなを殺した。
泣き叫んで、必死に命乞いをする声がいくつも聞こえました。人間じゃないような悲鳴もずっとしていました。
それから、とてもとても嫌な音。あの人みたいに耳が聞こえなければよかったと思うような、ひどい音がいくつも聞こえました。
お父さんとお母さんがあいつに殺されなくてよかった。そんなことを思ってしまうくらい、あの日聞こえたものはひどかったんです。
あいつは笑っていました。いろんなひどいことを、言っていました。みんなが……絶望してしまうのを、とても楽しんでいるように聞こえました。
私は今でもあの日のことを夢に見ます。お姉ちゃんもそうだと思います。
あいつはみんなを殺して、それからなんでもない顔をして私たちの前に現れました。
今にして思えば、あいつはきっと、あの人の耳が聞こえないのを知っていたのだと思います。
今にして思えば、あいつはずっとあの人を知っていたのだと思います。あの人は知らないのに、あいつはあの人のことを、知っていたのだと思います。
私たちが隠れているクローゼットを蹴って、あいつは歌を歌っていました。でたらめな歌でした。
出ておいで、子猫ちゃん、いたずらする子は、どっちかな。
出てこないなら火をかけて、子猫のローストできあがり。
あいつはあの人から見えないところで、私たちにあることを聞きました。
私は……今でも……あいつがそれを尋ねるのを夢に見ます。子供の頃は夜が来るだけで、あいつが来るんじゃないかって思って怖くてたまりませんでした。


(そこで私は、見るはずのないものを見た。まぼろしではないかと、何度も目をこすった。
 まだ早すぎるだろう。一日しか経っていないのに、どうして。頭の中にたくさんの疑問符が浮かぶ。だがそれは現実の光景のようだった。
 キャスとマギーのふざけあう声を背にしてみると、それが実際に見えているものだとは思えなくなってくる。だがそれは、夢ではなかった。
 なぜ、グエンがあそこにいる?)


神様。
忘れかけていたのに、どうして。どうしてあいつを私たちのもとへ呼んだのですか。
私たちが何か悪いことをしたのですか。あの人は何にも悪いことはしていないのに、どうして化け物や悪魔なんて呼ばれなければならなかったのですか。
あいつこそ化け物で、あいつこそ悪魔なのに。どうしてあの人を救ってはくれなかったのですか。
あの人がおかしくなってから、あいつはいきなり現れて、あの人を私たちから遠ざけました。
話しかけようとすると決まってあいつがやって来て、あの人に見えないようににっこり笑うんです。
やっぱりもらってあげればよかったねって、言って笑うんです。
今度はじっくり遊ぼうねって。お父さんとお母さんに会わせてあげるよって。
ねえ神様。
でも私は思います。神様、あなたはやっぱり、いないんだって。
だってそれならどうして、どうして少しだけの不幸にしてくれないのですか。
どうして私たちが――


(どうして施設の近くまで来ているのだろう。見つかれば、容疑者とはいかないまでも強制送還は免れないはずなのに。
 軍に見つかれば幸いだ。だが施設に詰めているのは街の者たち。彼に敵意を抱く者たち。
 グエンは施設から少し離れた裏の林にいる。ひっそりと影に身を隠し、誰かと話している。
 誰かと話をしている、だと? 逃亡者の彼に、相手などいるはずもないのに?
 やけにぼやけた男。黒い服。大きな眼鏡……そんなはずはない。彼がここにいるはずはない。現実に、いるはずがない。いや、いる。今の私はそれを知っている。
 だが、グエンの隣にいるはずが、ないのだ。
 私は塀から体を離して、自分に出来る限りの力で街へ続く道を走った)







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