神に遣わされた聖なる魂が目を開く。
復讐と情愛に揺れる男が目を伏せる。
憎しみの筆を綴る少女は手を止めて、

『時は来た』

何者をも震わせない静寂の声により、神の使いが選ばれる。

「機は熟した」

何者をも震わせる響きをもって、悪魔の一人が目を覚ます。

――悪しき者たちよ、滅びるがいい。穢れた大地とともに、私が浄化の鐘を鳴らそう。

誰にも知られることのない開幕は、あっけないノックの音から始まった。



「どうしたんだよ、レンツさん!」
後ろから追ってくるマギーの声に構わず、私は必死で坂を駆け下りた。
何度も何度も躓きそうになる。体が傾くたびに体勢を立て直し、運動に慣れていない肉体は既に悲鳴をあげていた。
「教会にいた方がいいって、軍隊に怒られますって!」
あの時、軟禁と聞かされて平然とそれを受け入れた時が嘘のように、心が破裂しそうなほどに高ぶっている。
気ばかりが逸り、体はそれに追いつかない。時間は無常に過ぎていく。
待っている暇はない。彼がいるのだ。彼、が。
「どうしたってんだよ!」
キャスが私に追いつき、息をきらせながらこちらの顔を覗き込んでくる。
わずらわしかった。誰も彼も、私を放っておいてはくれないのか。
私はただ知りたいだけだ。彼が何者なのか。なぜ私は彼を知っているのか、なぜ知らないのか。
確かめるように視線を上げる。木々に隠されているが、その先には施設がある。
今の私にはそれを見つめることなど容易いことだ。見ようと思えば見ることができる、障害物などものともせずに、人の思考すら視ることができるのだから。
「――」
リズは確かに、あそこにいた。
まだ施設の裏にいた。
だが、施設がない。……見えない。グエンの姿もない。
施設の中にいるはずの街の者の姿も、アリアナも、アビィも、ドナも……そもそも施設そのものが、見えない。
まるで靄でもかかったかのように、そこだけが白く霞んで見える。
「何だ? 何なんだよ、おい!」
動揺が顔に出ていたのだろう、キャスが同じ方向を仰いだ。
彼に見えるのは木々だけだろう。その他に何が見えるはずもない。
私にさえ、見えないのだから。
足をもつれさせ、何度も前につんのめらせ、過呼吸を起こしそうな肺をなだめすかしながら走る私の心は決して静かとは言い難かった。
なぜ知るはずのない者を知っているのか、それが現実にそこにいるのか、今さっきまで視えていたものが視えなくなってしまっているのか、なぜ、なぜ、なぜ。
数え切れない問いのすべてはある終着点に帰結する。それは虫の報せとでも呼ぶべきものかもしれなかった。
私の身に起きたことであるなら納得がいく。なぜと問うたところで既に起きてしまっていると諦めもつく。
だが、非日常は私以外のあらゆるところで起きているらしい。それは殺人事件であったり、他者への猜疑心であったり、暴発した憎悪であったりした。
私はそれらの非日常をどこか一枚の壁を隔てた他人事として捉えていた。それは間違いだったとでも言うのだろうか。

さんざんに理屈をこねたところで私はぜいぜいと息をきらしながらみっともなく走っている、これが事実だった。
そして実のところ考えているのは表層だけで、深層では何も考えてはいなかった。ただあそこに行かなければという衝動があるだけだ。焦るほどに。
何度仰いでみても施設だけがぽっかりと白く抜け落ちてしまっている。
(神の奇跡など大したものではないではないか。出鼻をくじかれるとはまさにこのことだ)
それが更に私の焦りを助長させた。更に足を踏み込もうとしたその時、
「――待てっつってんだろ、おい!」
キャスに右肩を掴まれ引き戻された。しかし力が加わったのはそこだけで、既に足は踏み込んでしまっているのだ。
急激にバランスを崩され私は立て直すこともできず、道が傾斜していることも相俟ってそのまま前方へつんのめった。
前方へ傾いだ体はそのまま重力に任せ下へ落ちていく。続いて腕、体、顔に痛み。砂の味と、土煙の臭いがした。
「レンツさん!」
慌てたマギーの声が聞こえる。坂を転げ落ちるかたちで転倒した私は、少しの間それを聞くことしかできなかった。
転んだことで、そして体を休めたことで顔に血がのぼっていくのがわかる。心臓が脈打つたびに全身の皮膚がじりじりと熱さを訴えた。
私は自分の影で暗くなった地面を見つめながら、このままここに蹲ることができたら、と考えた。
なぜこんなにも気が逸っているのか。私とは何ら関係のないことではないか。あそこに向かうということは、つまり自分から厄介ごとに首を突っ込むということだ。
何も見てはいけない。何を見ても無関係だと思わねばならない。私があそこへ行く必要など、どこにもない。
行ったところで何ができる? ただ傍観することしかできない、無力なヒト以下の私に、一体何ができる?
(砂の噛んだ口から皮膚から血が滲む、そんなもののためにあるのなら聴力など必要なかった)
「バカ、何やってんだよキャス――早く起こしてやれったら!」
何もできやしない。奇跡のちからなど、最初から既にあった。にもかかわらず私はどうしたって普通以下にしかなり得なかった。
ならばここでこうやって蹲り、そのまま朽ちてしまった方が遥かに有意義ではないか。
施設が視えようが視えまいが知ったことではない。そこでどんなことが起きたとしても、どうせ私に止められるものでないなら無駄なことだ。
グエンがいたとして問題がどこにあるだろう。彼がいるのは当たり前だ、死にさえしなければどこかにはいるものではないか。
「派手に転ばせやがって……レンツさん、大丈夫か? ほらキャス、」
今視えている男にしたってそうだ。彼の姿を視たからといって急ぐ必要などどこにもない、そもそも私の目がすべて事実を映すとは決まっていない。
あれはまぼろし。そう、まぼろしだ。私の頭はついにおかしくなってしまった、ただそれだけのことだ。
グエンも施設も視えない。だが彼は、リズはいまだあそこにいる。
太陽がじりじりと照りつける。
砂を噛めば、血の味が広がる。
リズはまだあそこにいる。
私を見ている。

――私を見ている?

林の中、暴風に煽られる木々に埋もれるようにしてひっそりと立つリズ。まるでそこにいないかのような……まぼろしのような姿。
大人しい茶髪は風に揺られることもない。眼鏡の奥にある澄み切った瞳もまた揺らぎなど知る由もなく、距離を超えた私の目を見返していた。
私はただ、顔を上げて彼を凝視する。人の目を見ることを避けていたはずだった私、だが、彼にはそんな配慮など必要がないとわかっていた。
なぜわかっているのだろう、いや、そんな疑問など無粋なことだ。
リズの表情も、不自然すぎるほどに穏やかだ。彼の考えは昔から読めなかった。だから私は彼と友達でいられたのかもしれない。
この三十二年の歳月においてリズという存在との接点がないことも、もはやどうだってよかった。
何者すら理解できない超然とした表情をたたえたまま、リズがこちらへと口を開く。

(これが、さいごの、わかれみちだ)

私はその言葉を、届かない声を目で感じた。
彼は私に問いかける。その問いに答えるべきかどうかは、私自身が決めることなのだ。
「――大丈夫か――おい、あんた」

(さいごにするか、さいごをなくすか)

キャスの呼びかける声。ためらいと戸惑いの混じった声、およそ聖職者に似つかわしくない口調と、その裏にある心優しい気遣いの色。
それはリズの言葉に釘付けになる私を引き剥がそうとする。伸ばされる手の先は教会だ。元の道へ戻るという選択肢だ。
これが、最後の、分かれ道。黒と白、相反する聖職者に挟まれて、どちらを選ぶかを迫られている?
追いついたマギーの息遣い、ごうごうと鳴る風、静かに消え行く人々の気配、白から黒へと変わりつつある穴、それらすべてが、私に選択を迫っている。
帰ろう、と呼びかけてくる彼と彼女の提案に揺れた。体中が悲鳴をあげていた。
これ以上、走る必要はないはずだ。痛む体を引きずって教会へ戻り、そして待てばいい。兵士たちを、起こり来るすべてのものを。
どんな悲劇が起きようとも、残酷な現実が待っていようとも構わないのだ。なぜならそれは永遠ではないからだ。
そう思っていれば楽になれる。そう思うことで楽になれてきた。今なぜ動こうとしているか、私でさえ不可解な行動といえた。
――何を迷う必要がある。そこまで今の自分に疑問を抱いているのならさっさと帰ればいいだけのこと。

私は俯いていた顔を上げた。真っ先にキャスとマギーの顔が目に飛び込んでくる、
「――!」
その次には黒く変色した異質な穴と、すぐ傍に佇むリズの姿が映る。
喉がからからに渇いている。膝や手や顔がひりひりと痛みどくどくと脈打っている。心臓もまたせわしない。肩で息をしても楽にはなれない。
立ちすくみ戸惑う二人の向こうを指差した。森の向こうにある、彼らにも私さえも見えない穴の空いた場所。
だが見えるものもあった。私に限らず、誰しもが認められるものが。
幼子が戯れに塗りつぶしたような真っ黒い穴に伸びる、同じ色をした一本の線、だ。
「あれは……」
振り返ったマギーが呟く間にも、どす黒い煙はその太さを増していっていた。







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