モリス・ベイリーは、正面玄関のすぐそばにいた。
三人ほど減った仲間と円陣を組むようにして座り込み、鬱屈した密度の中、怖れと苛立ちの混じった目をせわしなく方々へめぐらせていた。
彼がそんな態度をとっている具体的な原因は彼にもわからない。ただ元凶だけははっきりとしていた。
仲間たちの他愛ない会話を耳に挟みつつ、彼らもまた似たような目をしているのを確認し安堵する。そしてまた不安を膨らませ同類を探す。
これから先どうなるのか、いつまでこうしていればいいのか、軍部は何も言ってこない。
仲間は、押し込められた街の住人は壊れた蓄音機さながらにそのことについて予想を述べあい、不満をぶつけ合う。
昨夜まではモリスも彼ら同様、言葉にすることで憂さを晴らしていた。だが、もう、出し尽くしてしまった。
今はただ、臓腑が抜け落ちていくような、不快なほどの悪寒が体中を駆け巡っているのだ。体調が悪いのかもしれない、彼はそう思った。

幾度目か知れない軍部への悪口を聞き流し、幾度目ともつかない不安の視線をめぐらせたとき、玄関から数回、ノックの音が響いた。
それは数多の囁きによって掻き消されそうなほどに小さな音だった。だが、モリスもその仲間たちも、玄関にたむろする全ての者がいっせいに黙り込む。
誰かが来た。恐らくは、軍部の者だろう。しかし――
「お待たせして、すみません。失礼しますね」
扉が開き、顔を覗かせたのは、ここ数日で見慣れつつあった……どことなく見覚えのある、長身の兵士だった。あるかなしかの微笑をいつも浮かべた人の良さそうな兵士。
その数日前まで関所の番をしていた若い兵士とよく似ている。虫も殺せそうにないところなどは特に。
パーネットだとかいう、かの兵士は、外にいた住人たちを招き入れる。ぞろぞろと入ってくる彼らの顔つきはやけに渋い。何かがある、とモリスは直感した。
彼の安易な直感に違わず、避難民すべてを屋内に入れたパーネットは、後ろ手に扉を閉めながらぐるりと皆々を見渡した。
「皆さんにお伝えしなければならないことがあります」
水を打ったように静かだった室内が、水さえないほどの静寂に満たされる。誰も彼もが固唾を飲んで彼のせりふの先を待った。モリスもそのうちの一人だった。
だが、
「長く閉じ込めるかたちになってしまって、申し訳ありません。皆さんの安全を保証するとはいえ、ご迷惑をおかけして……」
モリスは小さな違和感に気付いた。
元が校舎だったというだけあって、遺物なみに古いながらも重く頑丈な木製の玄関扉。錆の浮いた金属板に直結した錠前も、年代物とは思えないほどしっかりしている。
パーネットは扉を閉めながら、口上を述べながら、その重い鍵を閉めていた。
「何かわかったのかい?」
こちら側の者が尋ねる。ドナだ。モリスはドナを好いてはいなかった。本来ならば彼は彼女に意識を向けていただろう。
モリスの目は、パーネットの手から離れなかった。なぜなら鍵を閉めた手は、それでもなお錠の取っ手を持ち続けていたからだ。
「……」
「……何か、悪い報せでも?」
「……どちらともあります。いい報せと、」
更にモリスは己の目を疑った。
かの兵士の手。錠をつまんだ手が、更にそれを回す。いくら古いものとはいえ、回るはずもない方向へねじったところでびくともしないはずだ。
錠は、回った。そして耳障りな金属音を立てて折れた。
「悪い報せがね。どちらを知りたいですか?」
金属片をちらつかせ、パーネットがにこりと問う。モリスもドナも、誰も彼もが呆気にとられていた。
パーネットはわざとらしく首をかしげ、ややあって「ああ、」と手に持ったものを捨てた。
「レオン・サンディオ副隊長なら施設の外にいますよ。彼には重要な役目がありますから」
肩に提げられた鞄に気を配りつつ、空いた手が腰に提げられたベルトをまさぐる。そういえば、パーネットはこんな軍服を着ていただろうか、とモリスは思い返した。
そもそもこんな服は見たことがない。どの階級であろうと、上下が分かれていたはずだ。軍靴だってそうだ。あんなに長い軍靴など有り得ない。動きやすさからはかけ離れている。
パーネットが少し屈んだ時、モリスは外から帰ってきた者たちの表情の理由を悟る。昔によく嗅いだ、しかし久しく忘れてしまった臭いが微かに鼻を掠めたのだ。
それは腐臭だった。だが、なぜそんな臭いがするのか、モリスにはわからなかった。ただ汗がいやに吹き出してくるのは彼にも自覚できた。

「ええ、それはもう重要な役目です。僕は彼には感謝しているんですよ、これでもね。だから今回はとてもやりやすい」
誰も尋ねてはいないのに、パーネットはまるで誰かと会話しているかのように一人語った。その頃には誰もが、目の前に立つ頼りない兵士の異質さに気付き始めていた。
腰を探る手を元に戻す。その手には、使い込まれたナイフが握られていた。
武器の登場により周囲がわずかにざわついた。それでもパニックには至らない。なにしろそのナイフは、遠目で見てもわかるほど、刃がつぶれてしまっていたのだから。
「それは……?」
「ただ彼だって人間なんです。人間が悪魔に勝てるわけもない、だから武器が生まれたんです。でも僕は、銃火器といったものは嫌いなんですよ」
大事そうに抱えていた鞄を降ろし、改めて立ち上がったパーネットは鉄の塊を光にすかすようにかざした。
会話が通じていない。場に緊張の糸が張り巡らされる。それでもなお、戸惑いが上回ったモリスたちは動くことができなかった。

その時だ。突然背後から、がたん、という音が響いた。そして別の場所……施設のどこかでまた、物音がした。
例えるなら扉や窓が閉まった音のようだった。些細なそれに、誰も彼もが肩を跳ね上げる。
唯一動じることがなかったのはパーネットだけだった。
「いい報せは、あなたたちが救われるということです。邪教の神のお膝元へ行けるんですよ。よかったですね」
ナイフを持ったまま腰に手を当て、小首を傾げて笑う男。モリスの記憶にあったはずの、あの人の良い笑みはいつの間にか跡形もなくなっていた。
薄い灰色の闇がじわりと滲み出てくるような錯覚を覚える。笑ってはいる、笑っているはずだ。むしろ非の打ち所もない、完璧な笑みであるはずなのだ。
「あんた……、どう、しちまったんだい?」
我慢の限界だったのだろう、ドナが当惑しつつも不安げにパーネットに近付いた。
彼は、モリスはドナのことを好いてはいない。しかしそれ以前に、モリスはどこまでも、普通の男であった。
(普通、ただ嫌いだからといってあそこまで残虐に誰かを殺せる人間などいないのだ。そんなことができるのは、そう、人間でないもの以外にない)
モリスという人間の中に残る野性じみた本能と呼ぶべきものが、ドナを制止しろと呼びかける。
だがそれ以上に、同じ本能が彼に動くなと告げていた。
「ああ、そう。そうだ。ドナさん。ドナ・エメットさん」
全体を見渡すようでいて、かつ誰をも見てはいなかったその兵士は急に我にかえったかのように、歩み寄るドナに微笑んだ。
呼びかけと足を止め射竦められる彼女に向けるのは、先のぞっとするような顔ではない。人間味のある暖かな笑顔。にもかかわらず、ドナも誰も安堵の息さえつかなかった。
「あなたの料理は美味しかったよ。とてもね。僕は彼が、あなたのようなひとと一緒にいられて本当によかったと思っています」
「……彼」
「そう。彼。今度また別のものを作ってくれますか? 何でも、どんなものでも、楽しみにしていますから」
やはり会話などは成立しなかった。どこか軸のない問答を続けるパーネット。この男は何をしたいのか、と疑問を覚えているのはモリスだけではないはずだ。
それでも誰も口々に疑念をぶつけないのは、目の前に立つ兵士の形容しがたい異質さももちろん含まれているだろう。
しかしそれ以上に全員を張り付かせているのは、時間の経過を差し引いてもなお慣れることのできない腐臭のせいかもしれなかった。
「ねえ、あんた、……ルイス……?」
ドナの声は震えていた。血色のいいふっくらとした頬は青ざめ、おそるおそるかの男を下から窺い見る彼女は、それから先に続けるべき言葉を持っていないらしかった。
「残念だな。本当に残念です」
右手がいたずらに、薄汚れた凶器をこねくり回していた。モリスの目が正しいとするなら、そのナイフについている汚れは土ではない。錆びでもない。
「悪い報せを伝えなければならないなんて。本当はあなたにだけは伝えたくなかったけれど、でも、これは僕の役目らしいから」
左手がドナの頬に添えられた。彼女は悲鳴をあげるでもなく、ただ息を詰めて作り物のような男の顔を見上げた。
ひどく滑稽な光景だ。モリスは場違いなことを考える。ドナは決して美しい女性とは言い難い、体格からして美しさからは遠いところにいる。
パーネットの表情はどこまでも優しく、右手に持っているものさえなければそのまま抱擁、あるいは接吻でも交わしたとしておかしくなかった。
垂れた目尻が細められ、右手がゆったりと彼女の喉元に這っていった。
誰も彼も、モリスもまた、声一つあげることができなかった。
「大丈夫。あなたも、他のみんなも、僕たちがきっと救ってあげる」
潰れた刃先が緩慢に、ふっくらとした喉へ埋められる。ドナが目を見開いてパーネットの腕を掴む。だがそれだけだ。
抱き寄せるように彼女の体に覆いかぶさったことで、モリスからは彼女のそこは見えなくなった。
「終わりじゃない、終わりなんてないんだよ。だからドナ、安心して、」
ただ、抵抗というにはささやかに過ぎる腕や足の動きと、静まり返った部屋の中でパーネットの睦言めいた囁きが――喘ぎにも似たドナの悲鳴が彼を、彼らを支配した。
「次に生まれた時はまた、美味しいご飯を作ってね」
ばたばたと音がし、ほんの数日前までは、久しく見ることのなかった鮮やかな色の液体が床に大きな溜まりを作った。
パーネットの腕を掴んでいた手がだらりと落ちる。ドナの声も、聞こえなくなった。







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