「――何なんだ、これは」
天井から、窓から炎を突き出し始めた施設の外、裏の林に身を隠すように立つ男が呆然と問いかける。
『見ての通りの虐殺だよ。あの男に付き合わされる奴らも可哀想だな』
男の問いに答えるのは半透明の何かだ。それは天気の話でもするかのように淡々と事実を語る。
『思うところがあるか、敵国の男。あの中に世話になった女や自分を慕ってくれた子供もいるんだろう』
「……」
悲鳴が聞こえ、鉄面皮めいた顔がほんの僅かに歪む。
『何なら止めてくるがいいさ。たとえ結果がわかりきっていてもその行動は彼女らの魂を救済するはずだ』
「……俺は魂なんて信じちゃいない」
『言ってくれる』
まさに魂だけと言っても過言ではないそれが肩を竦める。
「特攻が美徳とも思わない。だがこのまま黙っているつもりもない。……それで? お前は何ができる」
『残念だが俺はただのヒト以下でね。ただの触媒、と言ってもわからないか』
疑いの目を濃くしてそれを睨みつける男。
『まあ、いい。俺は代行者とでも呼んでくれ。この地を支配する神の言葉を、神に代わって伝える者だ』
「魂の次は神だと? 馬鹿馬鹿しい。あの乞食が神だとでも?」
『さてな。お前が信じようが信じまいが俺にはどうでもいいことだ』
着実に増す炎を眺める、異国の男とカソックを纏う不定形の存在。
火の手の伸びていない窓から若い女が逃げようと身を乗り出す。端から伸びた手がその頭を掴む。もがく隙も与えず羽交い絞めにし、喉を掻き切るのは……。
『ここで見物など、褒められたものじゃないな。あの女はお前の知っている奴だろう』
「いや、あれは街の人間だ。それに知っていようが――」
別の階の窓から黒髪の少女が見え、男は口を噤んだ。背の高い少女だ。顔や腕にいくつもの傷を作り、血を流している少女。
小柄な金髪の少女を抱え、怯えきった目で後ずさっている。同じく血に塗れた金髪の少女はぐったりとして動かない。
『知っていようが、なんだ? 温いな、何もかも。その中途半端さが今お前を何より苦しめているだろうに』
「……」
『無力さを噛み締めろ。己の浅はかさを恨め。言っておくが、どの道お前に待っているのは地獄だ』
少女が視界から隠れる。
「……地獄なんて、いくらでも味わってきた」
『それはヒトの世の話だろう。一度だけの人生における地獄は煉獄ですらない』
再び現れた少女は、両手に何も持たず、いっそうの血を流し、ふらつきながら、それでもゆっくりと逃げ続ける。
男は目を逸らし、それの顔を睨みつける。
「もう、……もう問答はたくさんだ。俺に何を求めている?」
それは目を逸らさず、少女の髪を掴む手を、姿を事も無げに眺める。
『前も言ったろう。覚悟だ。絶望しきるだけの猶予を俺は与えているのさ。何もかもを捨てて使徒となる覚悟だ――身を隠せ』
鋭い声に反射的に木々の陰へ隠れる男。見れば、それは跡形もなくその場から消えている。
何があったのか。問う前に男は臭いを嗅いだ。古い木材の燃える臭いに混じった、甘さを含んだ煙の匂い。
皮肉なことに、それは彼の本国でよく嗅いだ懐かしい匂いだ。血の匂いは、無い。
『随分お疲れのようだ。あの男に付き合わされるのはさぞ大変だろう』
「まるで知っているような口ぶりだな」
『知っているとも。お前より、あの色男より』
「……これはこの国の軍部が仕組んでいることなのか」
『知ってどうする。お前の任務はとうの昔に時効になったんじゃなかったか』
男は空を睨み、空気に溶けた低い笑い声が耳に入り込んでくる。

悲鳴はいつの間にかほとんど聞こえなくなり、建物を舐める炎の音の方が目立ち始める。
そこへ、ルイス、という掠れ気味の声が届く。男はすぐさま背後の気配に集中する。
階上にいる男の声は聞こえない。止み始めた狂乱に紛れ、煙草に喉を焼いた声が時折混じる。
雑音に紛れるそれらを拾おうと耳をそばだてる男。だがその前に、足早に金髪の兵士が立ち去る音を鼓膜が拾う。
なぜ、と思う前に、どさりと重いものが落ちる音がした。
『……生半の覚悟であの男を殺す気なら、自殺でも考えた方がまだ建設的だ』
「何の話だ? それより、あの音は」
『その音の話だ。もう出てもいい。自分の目で確かめろ、グエン・ヨウニ』
姿も消えたそれの言葉を疑い、忍ばせていた形見を手に収め、慎重に顔を出す男、グエン。
だが落ちたものの正体を認めるや否や、警戒心も忘れ目を見開いた。

「――アリアナ――?」
これまでの注意を忘れ、なりふりかまわずグエンは林から飛び出した。幸いなことに人気はない。階上の仇敵たちも姿を消していた。
二階から落とされ、ぴくりとも動かないように見える彼女の許へと走り寄って脱力した体を抱き起こす。
確かにアリアナだ。彼女ほどの巨躯を見間違えるはずもない。
だがその顔だけに限れば、彼女がアリアナなのかどうかはもはやわからなかった。
黙っていればどことなくきつい印象を受ける顔立ちだった彼女。話す声は柔らかく、年相応のあどけない笑みが愛らしかった彼女の面影はもはや無い。
今のアリアナは、額から顎の先まで無数の切り傷に覆われ、血で濡らしながらも所々に白いものさえ見えている。
顔だけでなく全身がそうだった。突き刺した傷ではない。この傷をつけた男はじわじわといたぶるように、彼女の体を裂いては反応を楽しんだのだろう。
動脈や内臓、致命傷になる部位を避けていることが彼の予想を裏付ける。何よりもグエン自身、同じ仕打ちを同じ男に受けたのだ。
「アリアナ。聞こえるか、アリアナ」
不必要に赤い唇は力なく開いている。耳を寄せても雑音に消され、呼吸の有無はわからない。
グエンは指を喉に埋めた。ぬるりとした感触は本来の彼にとって別段嫌悪を催すものではない。
脈拍は、僅かにあった。だがいくら致命傷を避けているとはいえ、彼女は紛れもなく危険な状態にある。
それでもグエンは懸命に彼女の名を呼び、血と裂傷にまみれた顔を撫で、反応を期待し続けた。
「なぜだ。なぜ奴はこんなことをする? 俺はいい、どうしてこの子にまで」
グエンの表層を築いていた牙城は崩れ、悲痛な声でどこにもいない空気に向かって問いかける。
「なぜアビィを殺した、ドナはどこへ行ったんだ、アリアナをこんなにも傷つける必要なんてどこにもなかったはずだ」
力なく横たわるだけの手を握り締めるグエン。手首を横に走る小さくも深い傷を見、更に顔を歪めた。
もしも彼女が命を取り留めたとして、傷は永遠に残る。それどころか、もし彼の予想が当たっているとするならば、指を動かすことすら――

「――動くな!」
怯えた鋭い声が空気を裂き、グエンは呪いのように刻まれた傷から目を離した。
燃え盛り始めた建物の向こうから、褪せた緑の軍服を纏う男たちが彼に警告をしたのだ。
いつの間に――いや、ただ自身が迂闊だっただけのことだ。時間の経過すら忘れていた。それにこれほどの騒ぎになって誰も気付かないはずもない。
銃も持たされていない、実戦も知らない半端者の若者たち。先頭でグエンを睨む男も、ただの板に等しい長剣を構える手が震えていた。
疎ましげに彼らを見つめれば、ひっと息を呑んで後ずさる。いくら辺境に使わされた者たちと言えど、あまりに不様だ。
「そっ……その手を離せ、グエン・ヨウニ!」
だが彼らは懸命に職務を遂行しようとしていた。相手を凍りつかせるだけの威厳も持たない声に、グエンは嘲笑をあげる気にはなれなかった。
「離せだと? それでどうする。この子の息の根でも止めるつもりか、腰抜け共」
「口を開くなっ、この異常者め!」
彼らの目は、片手に握ったままの彼のナイフに注がれていた。血どころか泥すら付いていないことに気付く者はいない。
「……これを、俺がやったと言いたいのか」
グエンは低く、唸るように吐き捨てた。目に浮かぶのは紛れもない憎悪だ。
怒りが沸々とこみ上げてくる。歯をむき出し、殊更に少女を抱き締める姿は人間というよりも獣のそれに近い。
アリアナの体をそっと横たえ、蹲ったまま彼らを見据える。実戦もない若い兵士たちは初めて受ける殺意に足を竦ませていた。


激情が、狂おしいほどの熱が彼の体を駆け巡る。
頭が痺れそうなほどだ。事実視界は色を失くし、ただ少女の傷が――血の色が目の裏に焼きついて離れない。

『なぜお前は、彼らに敵意を向けている?』

姿のない声が脳に届いた。

『彼らはその少女を手にかけたわけではない。戦争にすら参加していない。哀れな木偶の坊だ』

(だから、だから許せない)

耳元で主のない声を吹き込まれるたび、グエンの中に燻る火種にも風が吹き込んでくる。
気がつけば、時の流れが緩慢に思えるほどの激情が、彼の中に燃え盛っていた。

『……そうだな。奴が、奴らがお前の可愛い妹を殺したんだ』

(殺した? 違う、アリアナはまだ)

『――いいや死んだよ。さあ、見るがいい、あの男が持っているものを』


促され、グエンは数歩先にいる兵士の長剣に注目する。
その刃先にはべったりと血が付いていた。滴り落ちる黒ずんだ静脈血が、薄い刃を、柄を、手を汚していた。
兵士たちの背後に薄い靄がかかる。黒服を纏った赤毛の神父が、いつの間にかそこにいた。
いや――本当にそれは彼だっただろうか。
『同胞だけでは飽き足らず、兵どもは女子供まで容易く殺したのだよ。すべてお前を絶望に突き落とすためだけに』
耳元で囁かれる、遠いはずの声。
妙に掠れたその音は寒気のするほど心地よく、グエンの耳から脳へと入り込んでくる。染みこんでいく。
憎むべき仇敵、いや違う、彼の周りのありとあらゆるささやかな幸福を根こそぎ奪う――悪そのもの。
眩惑の声に翻弄されるグエンを待ち構える兵士たちは戸惑っているのではない、彼が傷つき絶望に暮れる姿を楽しんでいるのだ。
喉から搾り出される言葉にならない唸り声は、およそ人間のものとは言えない原始的な響きを含んでいた。
『悲哀に暮れるがいい、敵の子よ。だが研いだ牙を使うのは、決して遠い未来などではない』
白黒に取り残された視界の中で、おぞましく鮮烈な血の色が、神父の目の輝きが彼の理性をかき乱す。
グエンはナイフを握り締めた。かつての同胞が使っていたそれは、手の中に溶けてしまいそうなほどよく馴染む。
『そう、復讐に身を投じるのだ……来るべき時はすぐそこにあるのだから』
兵士たちが彼を見て何かを叫んでいる。だが、もはやグエンの耳にはそれらが言語として入ってくることはなかった。
咆哮を上げる彼、血の滴る長剣を構える兵士たち。その背後で、神父の金に染まった目がひっそりと輝いた。







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